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那須・白河の旅

平成14年10月14日(月)

 春の桜、6月の花菖蒲、紫陽花もいいが、秋の紅葉もよい。
日本人のものの哀れを感じる感性、そして人生の無常、黄昏を強く感じる年頃の人々にとって紅葉は一段と身に染みる。 
「那須に別荘があるから行かないか」と友人を誘って、那須旅行に出かける。

茶臼岳
 JR淵野辺駅、9時半に集合して那須に向かう。
参加者は学生時代の友人4人。
マイカー1台で出かける。
東名高速道横浜IC、環状8号線、首都圏外環道、東北高速道を経由して、白河ICで下りる。
白河のジャスコで食事の材料を買った。
別荘の近くの青空市場のトマトがとても安い。
箱入りで大量に買った。
そんなに買ってどうするのかと思ったが、トマトが好きだという。
林に囲まれた那須の別荘に着いたのは3時ごろ。

 私は今回で3回目。
1年ぶりの別荘で懐かしい。
 友人たちも「とてもいい別荘ね」といってくれる。
さっそく、料理好きの友人が、夜の食事の準備を始める。
夜の食事はイタリア料理、「リゾット」とトマトのサラダ。
「リゾット」は、きのこをたくさん入れて作る西洋ふうのおじやだが、たいへん美味しいという。

 ここは妹の持つ温泉付きの別荘である。
浴室も新しい木の香がただよい、湯船は石造りの豪華な雰囲気。
さっそく私は温泉を風呂に入れる。
温泉に入り、疲れも取れたところで食事の準備も整った。
赤ワインで乾杯し、「リゾット」で食事をする。
トマトの好きな友人は大量にトマトを切って出す。
形は悪いが美味しいトマトである。
ワインも料理も美味しく、高原の中の別荘ライフを楽しむ。
別荘の部屋は和室、洋室、リビングキッチンの3部屋。
和室は女性に提供し、私たち男性は洋室とリビングキッチンに分かれた。

 翌日の朝はベトナムのうどんフォー・ガ―。
これは私の担当。
前の晩から仕込をする。
鶏肉、鶏がらだしの素、しょうが、ニンニク、コショウなどでスープを作っておく。
ホントは、ナンプラー、ニョクマムなどの魚しょうが必要なのだが、省略する。

 翌日は、鍋にお湯をたっぷりと沸かし、フォーを茹でる。
フォーは米のうどんで日本の麺と違った風味がある。
茹でたフォーにネギ、モヤシ、茹でた鶏肉をのせ、熱いスープをかける。
好みでチリソースも入れる。
「どう?」と聞くと、「とても美味しい」という。


紅葉狩り

 食事が済んだらいよいよ念願の紅葉狩り。
朝、食事が済みしだい、那須岳に向かう。

道路や駐車場が混むから早ければ早いほどいい。
まだ早いと思っていたが、山に近くなるにつれて車が増えてくる。
 茶臼岳は、那須連山の中心、標高1915mの茶臼岳は、今も噴煙を上げている活火山。
9合目まではロープウェイで登ることができ、頂上までは約50分ほどで誰でも簡単に登ることができるという。
しかし、ロープウェイのそばの駐車場はもういっぱい、ロープウェイも長い行列を作っている。

 「もっと先まで行こう。行けるところまで行こう」と山を登る。
道の終点は「峰の茶屋」のそばの駐車場。
ここもたくさんの観光バス、乗用車が止まっている。
幸い、1台だけ空いていた。
車を置いて「峰の茶屋」の周辺をうろうろする。
茶屋のそばに朝日岳、茶臼岳への登山口があって賑やかである。
急な登り口で登る気がしない。

 下山してきた年配の男性に「紅葉はどうですか」と声をかけてみる。
「とてもよかったですよ」といいながらじろじろと人の足元を見る。
「だけどその靴じゃ無理だな」という。
初めから山に登るつもりなどないから、登山靴など履いていない。
第1登山靴など持っていない。
一応、ウォーキングシューズにはなっているが、街中を歩く靴だ。
友人の靴もおしゃれなシティ靴である。

 それでも「まぁ、頂上までは無理だが、30分くらい登れば、紅葉や景色のきれいなところがありますよ」といってくれる。
「せっかく来たんだから行けるところまで行ってみるか」ということで登り始める。
大きな石がごろごろする急な山道である。
靴の中で足がごろごろする。
靴もがたがたになりそうだが、足もがたがたになりそうだ。
天気はいいのだが、霧も多い。
ときどきガスってきて山が隠れる。
しかし山道の周辺の紅葉は見事である。
紅葉を鑑賞するフリをしながらひんぱんに休みを取る。
写真も撮る。
30分くらい登ったところで視界が広がる。
ガスもなくなって眼前に那須連峰が見える。
「あの山はなんというの」といっていると下りてきた人が「朝日岳(1896m)ですよ」という。
「茶臼岳」は反対側だから見えない。
 健脚の妻は、山岳会のメンバーと先週このコースを歩いて三斗小屋まで行ったという。
とても私には登れる山ではないが、見るだけでもすばらしい。
ななかまどなどの紅葉も今が盛り。
真っ赤に色づいて満山紅葉である。
苦しい思いをして、息を切らしながら、そして顔も紅葉させながら登る甲斐があった。






登山道の中腹から朝日岳を眺める。


殺生石と那須温泉神社

 那須の紅葉に満足して山を降りることにする。
下山の途中で殺生石と那須温泉神社に寄る。
殺生石
おくの細道に「殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す」とある。
 殺生石の伝説は、「尾が9本に分かれ、変幻自在に人をたぶらかすという妖怪狐が、七世紀に遣唐使が中国から帰ったとき、美女に化けてついてきた。鳥羽天皇の頃、玉藻の前と呼ばれ、帝に愛されたが、正体を見破られ那須野ヶ原まで逃げ延びるが、まもなく退治されてしまう。しかしその怨念は毒気を放って、近寄るものを殺してしまうので、人々は恐れ"殺生石(せっしょうせき)"と呼んでいた。後に玄翁和尚が一喝し、石を打ち砕いたが、飛び散った石からは妖気が消えず毒気を吐き続けた」という。
 この伝説はかなり有名である。
年を経て、神通力を持った狐は狸より陰険な妖怪。
人間を狸型と狐型に分けると女性に多いタイプ。
悪女とか毒婦といわれる女性は、だいたい狐に似た顔立ちである。

 「蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す」とあるが、奥の細道の時代と違って殺生石の毒気もかなり衰えたようだ。
 石の毒気とあるが、それは硫黄などの火山性のガスである。
しかし硫黄の匂いは、あまり、強くない。
蜂・蝶のたぐひの死体はどこにもなかった。
 江戸時代に採っていた湯ノ花(みょうばん)も今は採っていないようだ。

 殺生石の隣にはお稲荷さんの神社がある。
ここでお参りをすればそれなりのご利益もあるということだが、今は、そのご利益も衰えたことだろう。
 友人が親しげに話している。
誰かと思ったら、朝日岳の登山で知り合った人だった。

 殺生石からわき道にそれて那須温泉神社に出る。
那須温泉神社の歴史は古く、その霊験は国内に名高く、奈良朝時代の貴族が頻繁に温泉神社に訪れたという。 
 温泉の湧出の神のお告げが契機となってここに温泉神社ができたという。
温泉に縁の深い神社でそういった人と持ちつ持たれつの関係にあるようだ。

 源氏と平家が戦った平安時代の末期、那須余一が海の上の船に漂う扇の的を射るとき、「那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え・・・」と祈った。
矢が難しい的にあたり、那須余一の名声はもちろん温泉神社の名声が広がったという。
立派な神社で立派な年代ものの五葉松が印象的。
これで那須方面の観光は終わり。
後は別荘に戻ることになる。


 「途中で食事をするか」「どこにするか」「蕎麦でも食うか」などといいながら車を走らせる。
「食事をしたら、白河の関でも行くか」などと話す。
気付くと車は別荘の方向である。
「無駄金を使うことはない。蕎麦もたくさんある、そばのつゆもある。別荘でざる蕎麦を作って食べよう」ということになった。

 美味しいざる蕎麦を食べてまだ2時。
このままのんびりするのも悪くないが、「どこかへ行きたいわ」と女性がいう。
フェミニストの男性としては、女性の意向を無視できない。
「じゃあ、南湖公園と白河の関に行くか」ということになった。

那須町 ホームページ


南湖公園と白河の関

 白河の歴史的名所といえば、南湖公園と白河の関。
南湖公園には、翠楽苑、白河の関には、白河関の森公園がそれぞれ付帯して整備されている。
私たちくらいの年配ならば「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の關」という能因法師の歌を知らない人はいない。

 わが国最初の公園である「南湖公園」は、1801年、白河藩主松平定信によって作られた。
現在の史跡名勝「南湖公園」は、アカマツを主景とし、楓、桜などの緑豊かな市民の憩いの場となっている。
隣接する「翠楽苑」もまた有名。
「南湖」の緑と、湖と水に通じる「翠」と松平定信の精神を受け継ぎ、日本の伝統文化の伝承と活動の拠点となるべき施設であるという。
 この周辺は、池と松でたいへん景色がいい。
「池を巡って夜もすがら」といいたいが、時間がない。
「翠楽苑」で写真を撮り、車で池を一周して白河の関に向かった。
白河から黒羽の方向に車は戻る。
芭蕉のたどった道とは逆コースになる。


都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の關



20分ほどで「白河の関」に着く。
家もなければ車も通らない交通不便の地でよほどのことがなければ訪ねることもないようなところ。
「すごいところへ連れて来てもらったわ」と女性の友人も感謝の気持ちを漏らす。
神奈川県から遠い白河の関まで案内してきた私の苦労もこれで報われたというものだ。

 白河の関は、白河駅から南東に約12km。
5世紀頃に蝦夷の南下を防ぐ砦として設けられた。
歌枕の地としても有名である。
現在は、白河の関跡地の横に白河関の森公園が出来ている。
広い公園の敷地に関所の検問所、古代遺跡発掘の竪穴住居群、芭蕉の像、相撲部屋などがある。
いろいろと史跡がある。
奥の細道碑、川柳碑、古歌碑、古跡跡碑、白河神社など。

 白河神社の正面前の道に車を止め、神社に参拝した。
さすが年代ものの神社、神官もいない朽ち果てたような歴史の古さを示す神社だった。
勿来、念珠とともに、奥州三古関の一つとして知られる。
5世紀頃に、蝦夷の南下を防ぐ砦として設けられたといわれている。
後に交通検問所となり、辺境の歌枕の地として多くの歌人にうたわれた。
この地を訪れた人々には、能因法師、西行、芭蕉などが有名。
それぞれ味わい深い歌を残している。
 私たちもあまり有名ではないが、この白河の関を訪れた一員となったわけだ。
なにか味わい深い歌を作ろうと思ったが、思いつかなかった。 



白河市大字旗宿字関の森



 白河市ホームページ


鴨鍋と銀杏ご飯

 2日目の夜は鴨鍋と銀杏ご飯。
それにトマトがたくさん。
 グルメの友人が厨房に入りきりで腕をふるった。
料理も得意である。
献立、材料の仕込み、料理の一切を彼が仕切る。
専業主婦のKさんも今日はアシスタントである。
私は食べるだけである。
家からもって来たたくさんの銀杏をベンチで割り、皮もむいている。
これをご飯に焚きこむ。

 鴨鍋の材料は、前日に白河のジャスコで買っておいた。
いろんなきのこと白菜と豆腐はあった。
肝心の鴨がない。
しかたない。
鶏肉で代用した。
しかし、鴨も鶏も似たようなものだ。
 私は鴨と鶏の区別がつかない。
鴨だと思って食べることにした。

 それにしても美味しかった。
米は私が持って来たが、この米は小田原の友人が自分の田んぼで作った最高の銘柄米。
コシヒカリをベースに作った「絹ひかり」という米である。
私は彼が届けてくれるこの米をいつも食べている。
 この米で作った銀杏ご飯は、焚き具合も上手にできた。
ごま塩をかけて食べる。
料理自慢の友人が作った鴨鍋もとても美味しい。
今度はワインとビールで乾杯する。

 長い夜は、アカデミー賞に輝く「クレーマー・クレーマー」を見た。
ダスティン・ホフマンとメリル・ストリープが主演する。
夫婦の愛情を失い、離婚した夫婦が子どもの養育を巡って裁判で争う。
長い人生にはいろんなことがある。
「事実は小説より奇なり」というが、そんなことは誰にもある。
人にいわないだけである。
愛情を失い、惰性で暮らしている夫婦も多いだろう。
名優の演技と名せりふで身につまされ、反省しながら映画に見入った。

 すでに見た人も多いだろう。
私も前に見たが、名画は何回見ても味わい深い。


 平成14年10月16日(水)

 朝、一番で温泉に入る。
温泉三昧の別荘ライフも今日で終わり。
名残は尽きないが、今日は帰る日である。
早くももう撤退の準備である。
友人の娘に「明日から仕事があるの」と聞くと「ええ、そうです」と答える。
私はまだいてもいいが、仕事のある人もいる。
 夜、強い雨が降ったという。
「夜来風雨の声」というが、雨の音は聞こえなかった。
よく寝ていたのだろうか。
 朝は快晴である。
朝は和食。
納豆と卵と味噌汁とトマトである。
3日間、トマト三昧の食事だった。
 我家では朝はいつもパン食だが、私は和食のほうが好きだ。
しかし仕事を持つ妻には手がかかる和食は作ってもらえない。

 前日、白河の関へ行ってしまったので、今日はどこへ行く予定もない。
もっぱら別荘の掃除と後片付けをする。
料理の好きな友人は掃除も好きである。
念には念を入れて隅から隅まで熱心に掃除をする。

 掃除が終わったところで別荘の周辺を散歩する。
広い紅葉の林の中に別荘が点在する。
 管理事務所に聞くと平均的には70坪の土地に20坪の家だという。
このクラスの温泉付きの別荘の価格はだいたい1500万円くらい。
自分のことだけ考えれば、今住んでいるところを処分してここに永住することも悪くない。
一時物価の安い外国に移住することが流行ったが失敗した人も多いという。
ここなら日本だし、言葉も通じる。
だいぶおつりがくるから温泉付きの豊かな老後が送れそうである。
 「いいところね」と友人もいう。
しかし冬は寒そうだ。
桜の古木もたくさんある。
「桜のころ、また来ようか」というと「いいねぇ」という。
「途中で昼飯をするより別荘で早めの昼食をしよう」と提案する。
「米もあるし、あじの干物もある」といったら「そうだな、急ぐ用もないし、そうするか」となった。
しかしせっかく掃除・後片付けをしたのにまたやらなくてはならない。
 昼食の準備をして、昼食をして、また後片付けをしたら出発は1時になった。
おかげで東京に着いたときは夜になっていた。


奥の細道

(殺生石・4月19日)
 是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。
やさしき事を望侍るものかなと、

野を横に馬牽むけよほとゝぎす

殺生石は温泉の出る山陰にあり。
石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。 

 (白河の関 4月21日)
 心許なき日かず重なるまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へ」と便求しも断也。
中にも此関は三関の一にして、風騒の人心をとヾむ。
秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。
卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。
古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとヾめ置かれしとぞ。

卯の花をかざしに関の晴着かな   曾良

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